定点観察-千葉県八千代市-イオンモール 「未来屋書店 店頭展示」
書店は時代の流れ,動きを示す貴重な情報源でもあります。人気の本や話題の本が陳列されている店頭(入口付近)の展示コーナーは,時代ニーズを敏感に投影するスポットでもあります。
千葉県八千代市(人口16万人)は,1996年に東京都心に乗り入れている東京メトロ東西線が延伸され,東葉高速鉄道と相互乗り入れしたことから,急速に都市化が進んでいます。このブログでは,エリアマーケティングの事例として,未来堂書店(イオンモール)と八重洲ブックセンター(セブン&アイSC),さらに書展売上高一位のTUTAYA書展の店頭展示コーナーに書籍を定点観察します。
◆注目点
・“今週の注目本”で,『海賊といわれた男』が4列(4フェース)陳列されています。
・“ビジネス書ランキング”では,『ディズニー ありがとうの神様が教えてくれたこと』,『ディズニー そうじの神様が教えてくれたこと』,『ディズニーランドであった心温まる物語 』とディズニーランド関連のビジネス書を3冊陳列しています。
・
┏┓
┗■ 未来屋書店が出店する「イオンモール八千代緑が丘」
イオンモール八千代緑丘 http://www.aeon.jp/sc/yachiyomidorigaoka/ は「イオン八千代緑が丘店」を核店舗に、ファッション、飲食、サービスなどの専門店で構成されています。
・鉄骨造陸屋根6階建
・駐車台数: 2,500台
・敷地面積: 45,990平方メートル
・延床面積:129,874平方メートル
・商業施設面積 63,228平方メートル
・所在地:千葉県八千代市緑が丘二丁目1-3
書店は時代の流れ,動きを示す貴重な情報源でもあります。人気の本や話題の本が陳列されている店頭(入口付近)の展示コーナーは,時代ニーズを敏感に投影するスポットでもあります。
千葉県八千代市(人口16万人)は,1996年に東京都心に乗り入れている東京メトロ東西線が延伸され,東葉高速鉄道と相互乗り入れしたことから,急速に都市化が進んでいます。このブログでは,エリアマーケティングの事例として,未来堂書店(イオンモール)と八重洲ブックセンター(セブン&アイSC),さらに書展売上高一位のTUTAYA書展の店頭展示コーナーに書籍を定点観察します。
未来屋(2013/06/13) | |||
◆今週の注目本 | |||
海賊といわれた男 | |||
丸の内タニタ食堂 | |||
東原亜紀 | |||
殺生伝 | |||
心 | |||
天音 | |||
アジアで花咲けナデシコたち | |||
俺はこういう人間だ | |||
はだかの美奈子 | |||
美奈子ファミリー | |||
俺俺図鑑 | |||
◆ビジネス書ランキング | |||
伝え方が9割 | |||
雑談力が上がる話し方 | |||
ディズニー ありがとうの神様が教えてくれたこと | |||
ディズニー そうじの神様が教えてくれたこと | |||
ディズニーランドであった心温まる物語 | |||
いつやるか,いまでしょう | |||
医者に殺されない47の心得 | |||
統計学が最強の学問 | |||
生きる力 | |||
奇跡の言葉 | |||
モノのいい方大全 | |||
大人の国語力大全 | |||
◆注目点
・“今週の注目本”で,『海賊といわれた男』が4列(4フェース)陳列されています。
・“ビジネス書ランキング”では,『ディズニー ありがとうの神様が教えてくれたこと』,『ディズニー そうじの神様が教えてくれたこと』,『ディズニーランドであった心温まる物語 』とディズニーランド関連のビジネス書を3冊陳列しています。
・
┏┓
┗■ 未来屋書店が出店する「イオンモール八千代緑が丘」
イオンモール八千代緑丘 http://www.aeon.jp/sc/yachiyomidorigaoka/ は「イオン八千代緑が丘店」を核店舗に、ファッション、飲食、サービスなどの専門店で構成されています。
・鉄骨造陸屋根6階建
・駐車台数: 2,500台
・敷地面積: 45,990平方メートル
・延床面積:129,874平方メートル
・商業施設面積 63,228平方メートル
・所在地:千葉県八千代市緑が丘二丁目1-3
![]() | 海賊とよばれた男 上 (2012/07/12) 百田 尚樹 商品詳細を見る |
![]() | 海賊とよばれた男 下 (2012/07/12) 百田 尚樹 商品詳細を見る |
スポンサーサイト
栃木県では,かつては栃木市(当時は栃木町)に県庁が置かれていた。廃藩置県後の1873(明治6)年6月,宇都宮県と栃木県が合併して現在の栃木県が誕生したとき,栃木町が県庁所在地になった。宇都宮の住民はこれに反発したが,いったん決まった以上どうすることもできなかった。
だが,1883(明治16)年頃になると,宇都宮の士族や豪商,地主などが中心になって猛然と県庁移転運動を起こした。県庁が県の南に偏り過ぎているため,県民の多くが不利益を被っているというのが県庁移転連動の理由であった。だが,栃木と宇都宮の距離はわずか30キロメートル足らずしか離れていない事もあって,この誓願は却下された。
ところが,1883年10月に福島県令(県知事)の三島通庸(みちつね)が,栃木県令に赴任して様相が一変した。県庁移転運動に対抗して提出された県庁移転不可の建議書や,県庁据置請願書などをことごとく却下し,3カ月後の1884 (明治17)年1月に,県庁を宇都宮へ移転したのである。だが,県民の利益を守るために県庁を移転したわけではなかった。栃木が県の南部に偏りすぎているというのはあくまでも建前で,民主勢力を弱体化させることが本当の狙いだったといわれている。
栃木は栃木県における自由民権運動の拠点として,反政府運動が最も盛んな地域だった。足尾銅山鉱毒事件で知られる田中正造も,そのひとりである。県庁のお膝元から民主勢力を排除し,三島県令の意のままに県政を運営することが,県庁を宇都宮へ移転した最大の理由だったのである。